唐津城の歴史

HISTORY

初代城主の寺沢志摩守広高は、
名護屋城普請や朝鮮進攻において、

兵力輸送や食糧補給などの任務を担いました。
秀吉からの信頼も厚く、

広高は岸岳城主波多三河守(はたみかわのかみ)
の領地を与えられました。

また、唐津城築城にあたり、

広高は松浦川と神田川の
河口部分の大改修を行い、

海と河口に囲まれた要害堅固な海域(平山城)
として名護屋城の建材や

薩摩藩・肥後藩を中心とした九州各藩の協力や

穴太衆(あのうしゅう)の石工技術を持って

7カ年の歳月を費やして完成させました

歴代藩主

Successive feudal lords

唐津藩は初代寺沢氏が2代で断絶後、1年間の公領を経て、大久保、松平、土井、水野、小笠原と譜代大名が藩主につきました。それは幕府が唐津藩を長崎監務と九州の有力外様大名の監視役として重要視していました。

寺沢氏1593-1647

秀吉の家臣として仕え、朝鮮出兵の際には名護屋城の築城にあたり普請、兵力輸送や兵糧補給を行いました。寺沢広高は文禄4年(1595)、豊臣秀吉から波多親(ちかし)に替わり唐津拝領。関が原では東軍として奮戦し、天草領4万石を加え、12万3千石の大名として唐津城築城や城下の町割り、松浦川の大改修工事、黒松の植林(現在の虹ノ松原)町割りを行い唐津の基盤を作りました。


大久保氏1649-1678

初代大久保加賀守忠職(ただもと)は1649年播磨の明石から入部。庄屋の下に名頭を設け唐津藩独特の村方三役制を定めたりしょうやの転村制を実施したりして郷村支配強化に力を入れた。


松平氏1678-1691

3代 14年 石高7万石
1678年松平和泉守乗久は下総の佐倉から入部。1682年(天和2年)唐津領は飢饉に見舞われ1800人余りの餓死者が出た。その為に回向寺として海女町に無量軒を建立。2台乗春は4年余また3代乗邑は5歳で家督を相続し翌年は志摩の鳥羽へ転封したので唐津へ来ることはなかった。


土井氏1691-1762

教育の普及、藩内産業を奨励した土井氏。初代利益の奨励により儒臣奥東江の藩校や、吉武法命の民間塾が盛んになりました。また唐津焼の御用窯を開いたり、捕鯨、和紙など藩内産業を奨励したことで、経済向上を図りました。


水野氏1762-1817

水野氏の時代は、明和元年(1764)から干ばつ、洪水など7年にわたる凶作が藩を襲いました。しかし藩は増税による財政改革を行ったため、明和8年(1771)に「虹の松原一揆」が起こりました。4代忠邦は浜松に転じた後、幕府老中として「天保の改革」を行ったことで知られています。


小笠原氏1817-1871

唐津藩最後の藩主小笠原氏は、逼迫した藩財政再建のため、櫨や楮、干鮑・煎海鼠の専売、石炭や捕鯨などの殖産活動を行った結果、藩内の経済力は高まっていきました。幕末期に目立った働きをしたのが長昌の子長行(ながみち)。老中格に取り立てられ、生麦事件や第二次長州征伐などに手腕を揮いました。

安土城、名護屋城

そして唐津城へ繋がる石垣

唐津城は、関ヶ原の戦いの戦功で加増された武将:寺沢志摩守広高によって

松浦川河口の半島状に突き出した丘陵(満島山)に築かれました。

唐津の城下町には唐津城を中心とし、

現在も多くの石垣を目にすることができます。

唐津城の石垣は、安土城や名護屋城の城郭の石垣構築に携わった

「穴太衆(あのうしゅう)」が構築したと言われています。

他にも織田信長が安土城で初めて使用したとされる「金箔瓦」は、

豊臣秀吉築城の大阪城・名護屋城でも受け継がれ、唐津城でも発見されました。

唐津では、400年経った現在も

能や浄瑠璃、茶の湯、唐津焼など多くの安土桃山文化が受け継がれています。

唐津城は、関ヶ原の戦いの戦功で
加増された武将:寺沢志摩守広高によって
松浦川河口の半島状に突き出した
丘陵(満島山)に築かれました。
唐津の城下町には唐津城を中心とし、
現在も多くの石垣を目にすることができます。
唐津城の石垣は、
安土城や名護屋城の城郭の石垣構築に携わった
「穴太衆(あのうしゅう)」が
構築したと言われています。
他にも織田信長が安土城で
初めて使用したとされる「金箔瓦」は、
豊臣秀吉築城の大阪城・名護屋城でも
受け継がれ、唐津城でも発見されました。
唐津では、400年経った現在も
能や浄瑠璃、茶の湯、唐津焼など
多くの安土桃山文化が受け継がれています。

安土城の建築技術

名護屋城の解体資材を使い作られた唐津城には近江から派遣された石積みのプロフェッショナル穴太衆をはじめ、九州各地の石工達が造った野面積が多く用いられています。名護屋城の破城に伴い、この地に残った穴太衆をはじめ各地に石工たちが造った野面積、打込み、切り込み式等が石垣の散歩道で見ることができます。

3種類の石垣作り

唐津城と石垣の道では多種の石垣の積み方が見れます。場内の一部では、野面積、打込接、切込接という石垣も残っています。この地方に移り住んだ穴太衆の技術は鳥居、狛犬をはじめ棚田の石垣作りに活用されました。

姉子の瀬

唐津城築城の際、初代藩主寺沢氏は水運の便を図り、洪水等の被害を避けるため、松浦川や町田川の改修にも力を注ぎました。一説によれば、海からの侵略を防ぐため、名護屋城から移した石垣を用いて築いたともいわれています。

石垣が語る歴史の物語り

薩摩藩島津家の家紋

唐津城天守台の入口右側門脇の石垣には、丸に十の字の石垣刻印の石垣が見られます。薩摩藩島津家の家紋で、この城が名護屋城廃城後、九州の諸大名の助けを受けて築城されたものだということを物語っています。

協力者の証

三の丸の南端に現存する「肥後堀」という堀があります。この名称は、築城に協力した肥後藩主・加藤清正へのリスペクトの証しです。現存する肥後堀のほか、薩摩堀、長州堀、佐賀堀、柳堀など、城郭周囲の堀には、協力大名の各領地名が冠されていました。